Ryuichi Sakamoto Opus

Ryuichi Sakamoto Opus

坂本龍一 『Opus』に寄せて鈴木正文

 坂本龍一さんの生前最後のピアノ・ソロ・コンサートが配信されたのは2022年12月11日のことであった。その、まさに2年後にあたる今年の12月11日、長編コンサート映画の『Ryuichi Sakamoto | Opus』(以下『Opus』)が、多様なかたちをとって、一般に販売されることになった。

 commmonsが展開する商品は5種類(①CD②アナログ③アナログ豪華盤④DVD⑤Blu-ray)で、それぞれ個別のパッケージ商品として発売される。また、『Opus』のなかではじめてピアノ・ソロ演奏された『Tong Poo』がシングルとして6月28日(金)の0:00時に、『Opus』の音源が8月9日(金)の0:00時に、それぞれ配信された。

 昨年3月28日に他界した坂本龍一さんは、ピアノ・ソロのコンサート映画として録音・録画・編集されることを前提にして、(結果として死去するほぼ半年前となった)2022年の9月上旬から中旬にかけての8日間を費やし、1日に2、3曲ずつ、合計20曲を、この映画のためだけに演奏した。
 そのうち13曲ぶんの演奏を編集した『Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022』が、無観客のソロ・コンサートのライヴ中継のようなかたちで、2022年の12月11日に世界配信されたのであった。この配信映像のなかで、坂本さんは、「ライヴでコンサートをやりきる体力がない――。この形式での演奏を見ていただくのは、これが最後になるかもしれない」と告白した。告白は、予言となった。
 アーカイヴ化されたこの『Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022』とはべつに、20曲におよんだ坂本さんの最後の演奏の全部を収めて編集されたのが、約1時間43分におよぶ長編コンサート映画の『Opus』である。

 『Opus』はまず、昨年9月に、「第80回ヴェネチア国際映画祭」の「アウト・オブ・コンペティション部門」に出品、初上映された。ヴェネチアの映画祭と坂本さんとの縁は浅くない。坂本さんは2013年のコンペディション部門の審査員を務めたし、2017年にはみずから出演したドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto: CODA』(スティーヴン・ノムラ・シブル監督)が公式出品され、ワールド・プレミアの上映に立ち会っている。『Opus』とともに、ヴェネチアに帰ったともいえる。
 その後、『Opus』は、10月に「第61回ニューヨーク映画祭」の「スポットライト部門」に、11月には「第36回東京国際映画祭」の「ニッポン・シネマ・ナウ」部門に、それぞれ出品され、一般には、5月10日から全国公開された。
 そして、あの配信コンサートから2年の後の12月11日には、この『Opus』を、いよいよ、プライヴェートな空間でプライヴェートな時間とともに、任意に経験できるようになる。

 『Opus』に遺された20曲は、坂本さんがその生涯の最後に、万感とともに、「遺すべき曲」としてえらんだ20曲である。その演奏は、「坂本龍一の最後の演奏」として遺されるに値する演奏たるべく、2022年9月の時点の坂本さんにとって、およそ引き出しえるすべての力を引き出しきって、完遂された。
 監督の空音央、撮影のビル・キルスタインらのスタッフをニューヨークから呼び寄せ、録音と整音にZAKを迎え、編集に川上拓也、照明に吉本有輝子を配して、全編モノクロームの映像として、それはプランされた。ピアノ1台と演奏者の坂本龍一ひとりだけが登場するそれは、演奏する坂本さんの姿と演奏された音楽を、細大洩らさず、映像および音響として記録した。監督で、坂本さんの実子でもある空音央さんは、『Opus』の公式サイトに寄せたコメントで述べている。
 「坂本龍一が意図したコンサートをできるかぎり忠実に映画化するため、本人含めスタッフ一同、全身全霊でOpusを作り上げました。出来上がった映画には物語やセリフはありません。ピアノと身体、音楽と表情だけのコンサート映画です。ウトウトしたら音楽に揺さぶられながら寝ちゃうのも一興。本物のコンサートのつもりで音に身を預け、体験していただければ、本人も嬉しかったんじゃないかと思います。Enjoy the concert!」と。

 たしかに、この映画には「物語やセリフ」はなかった。すくなくとも台本によって準備されたものとしてのそれらは――。とはいえ、ここでは、音楽それじたいが、変化のたえない起伏の「物語」であった。そして、作為のセリフのことばにまるめられない「ことば」があった。11曲目の「Tong Poo」にとりかかろうとして鍵盤に指を這わせているとき、坂本さんの口から、つぶやきがもれた。聞き取れないぐらいにささやかなそれは、「ちょっとつらいかな、ムリしてるかな……」と、いっているように(僕には)聞こえた。映画のほぼ半分近い残りが、それからさらにつづき、音楽のあたらしい物語が次々と語られ、演奏者は雄弁な沈黙をまもった。ウトウトすることはできなかった。
 映画のなかの坂本さんの、深浅の息づかいや足が踏むペダルの動作音といったノイズ、前後にも左右にも泳ぐ上体と頭、するどく射抜くかとおもえば悲痛にゆがみもする哀しみの目、それじたいが生き物のように、しかし、どこまでも意志的に動く指と手――。それらはすべて、音楽の有機的な一部だ。音楽は、音のみの点的集合で成り立っているのではない。鍵盤からはなれてたゆたいながら空中をさまよう坂本さんの手指が、つかもうとも手放そうともしているかのような残響は、指揮棒となった手指とともに奏される音楽だ。
 それは、むろん、僕の解釈にすぎない。映画を観、音楽を聴く人の数とおなじだけの解釈がある。

 話を事実に転じる。

 2022年9月13日の午後――。『Opus』のための収録作業の終わる1日まえである。
 僕は、NHK放送センター内の509スタジオで、坂本さんの演奏に立ち会った。この日、坂本さんは「20220302 – sarabande」と「The Sheltering Sky」の2曲を演奏した。演奏後、スタジオのコントロール・ルームで、20分ぐらいだっただろうか、僕は坂本さんと話すことができた。よく冷えたみずみずしいナシをふたりしてほおばりながら。
 この509スタジオは、坂本さんが、「とっても音がいいんですね。何度も録音したこともありますが、日本でいちばんいいスタジオです」と断言するスタジオである。そこを特別に借りておこなっている「コンサート」だった。このスタジオの「音」は、どういいのですか、と僕は尋ねた。余分な注釈をつけずに、かれの答えを、かれのことばそのままに、以下に紹介する。

「響きがいいんです。点の重なりというよりも……、ジャアーンって、こう響いている、空間に鳴っている、音が好きなんで……。そうじゃない人もいるけれど。ふつうは点と点のつながりのよさ、みたいなのを競ったりするわけです、時間軸上での。僕は、ジャアーンと響いている……、これが好きなんです。その響きがものすごく大事なの……。つぎに音がいつ鳴るか、というのが、響きでまったく変わっちゃう。点的っていうのは、こういう空間のなかに、いかに綺麗な線を描くか、ということを競っている。ここに美しい少女がいました、木があります、みたいな。でも、ピアノの音がひとつポンと鳴って、その鳴りが完全に消えちゃって、まわりの空間の音に溶け込んじゃっていくまでのあいだに、こっちが濃くてこっちが薄くなっていく、そしてかすれて消えていくまでのあいだに、そこにむかって、いろんな階調が変わっていって、複雑な色の変化がある。決してシンプルじゃない」

 iPhoneでの録音をそのまま書き起こしたメモだ。こうして書き写しているうちに、これは、509スタジオの音の響きのことだけではないようにおもえてきた。そして、ふと、坂本さんと最後に会った昨年の3月8日の深夜近くに、かれから受け取った一通のメールをおもいだした。その日、僕は、坂本さんがそのころ読んでいた本について、2時間あまり取材していた。
 メールにはこうあった。

    先程言い忘れましたが、俳人富沢赤黄男の代表作は
    「蝶墜ちて 大音響の 結氷期」
    で、すごいと思います。
    度肝を抜かれました。

 ああ、と、いまにしておもった。坂本さんが赤黄男のこの句に「度肝を抜かれた」わけがわかったとはいわないけれど、これを「すごい」と感じたことは、わかるような気がした。
 響き、なのだ、きっと。
 坂本さんは、赤黄男の句に、音の響きを「聴いた」のだ。「こっちが濃くてこっちが薄くなっていく、そしてかすれて消えていくまでのあいだに、そこにむかって、いろんな階調が変わっていって、複雑な色の変化がある。決してシンプルじゃない」音の響きを。
 『Opus』の坂本龍一は、「蝶」であり、「大音響」だった。

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